#2.⭐️アトピーと私
“私”という意識を超えたところにある、大いなるパワフルなチカラを感じた日々。
2017年の春、長男が小学校を卒業する頃。前腕から始まり、顔、上腕、胸、お腹、会陰…上半身を中心に順に皮膚が無くなった3ヶ月間。
鏡に写る自分の姿が受け入れられず、吐き気と過呼吸発作が起きそうになった。
大丈夫!と自ら言葉にして、過呼吸は抑えられるこを学び、自分で何とか必死に自分を支えていた。
2〜3時間おきにくる強烈な痒み発作。
その痒さといったら…。
すでに皮膚なんて無いのに、奥からうずく痒みに耐えられず、ぐじゅぐじゅの皮膚をさらに爪で掻きむしる。
深くえぐられた皮膚を見て…「誰か助けて」…声にならない声で叫んでいた。
昼も夜も泣きながら寝室から台所に降りて、冷たい水に手や腕や肩までつけて悲鳴をあげながらクールダウン。電子化されたそのお水がうっすら血色に染まりながら包帯をゆっくり外し、きれいなお水で傷をあらい、新しい包帯を巻き直す。
包帯で血流をとめないよう、キツすぎずユルすぎず…
乾いても蒸れても痒くなるので、薄すぎず厚すぎず…
両手指、両腕全てに健常皮膚が無いだから、難しいのなんの。
皮膚があることが、どれだけナチュラルに保湿をしてくれて、心地良く外と内を分離してくれているのかを知った。身をもって、知った。
私達は、
失って初めて
不具合を感じて初めて
ただそう在ること、あってくれたことに感謝する生き物だ。
・
再び寝室に戻る頃、、、消えた痒み発作の代わりに、ズキンズキンと拍動するほどの痛みと哀しみと自責感に襲われる。
体が温まると痒くなるので夜風を入れて寒い寝室でうずくまって寝る。夏じゃなくて本当に良かったと何度も思う。
今晩、また地獄のようなこの痒み発作を朝まであと何回繰り返すのかと…たとえ1回でも発作が少ないことを心から願いながら、少しでも今のうちに寝ようと目を閉じる。
寝たか、起きていたのか、
よく分からない夜を過ごして、夜が明ける。
このような長い長い夜が毎日続く中で、私が気づいたこと…
私は、『自分から発したどの思考も、どの思考回路も、全て、ぐるっと回って最後は自分を責めるナイフとなって自分で自分をグサグサと刺している…』
気づいた瞬間、本当にびっくりだった。
ああ、ホントだ。
私の人生、ずーっとコレやってるんだ。
自分で自分を責める思考回路は、もうやめよう!
方法なんて分からない…でも、もうやめるんだ!
私は、私を大切にしよう!
私だけでも、私を大切にしてあげよう!
ここまで自分を追い込んで初めて気づいた。
ここまで追い込まれないと気付かなかった。
私達は、向き合うことを、
無意識に上手に避けて、結果、遠回りしているのだろう。
そして、ふと、頭によぎったのは、あぁ、これが私にとっての自己否定、自責、自分への攻撃の形。日々向き合う患者さんのリストカットや過食嘔吐や過量服薬という自傷行為。ストレスが強いときに爪で自分に傷を作ってきたことは、もしかして私流のそれだったのかもしれない。。
痒みの話に戻すと、「感染」をおこすとまた違った耐えられない痒みに襲われるので、
抗生物質をなるべく使いたくなかった、病院に行きたくなかった私は、
「いかに免疫力を保つか」
に毎日徹して生活していた。
食事も大切にして、
そして必ず毎日お風呂に入った。
塩素を除き、電子化した水に、塩分を足したお風呂。(少し生理食塩水によせる)
だけど、全く皮膚がないのだから、やはり悶絶するほどの悲鳴が出る。因幡の白ウサギはこんな感じだったのだろうかと、毎回出雲の神話が脳裏に浮かんだ。
唯一の救いだったのは、その約10分間を耐えた先にある、、、
唯一の、
全く痒くもない、痛くもない、
乾くこともない、蒸れて痒くなることもない、
全ての心配から解放された皮膚感覚のない世界。
その束の間の数分間は
本当に心の底から深く呼吸ができた。
海のような羊水の中にいるような
境がなく溶け合うような
守られ包まれているような。。。
皮膚の自他を分ける境界があることがどれだけ安心で大切なのかということと、
その自他の境界を超え、境がなく溶け合うワンネスの世界。その安心感と至福の体感。
それは、後に気づくことになった人間関係の境界の概念と同じであった。
自分と他人の感情を分け、人生の責任を分ける境界の認識がどんなに大切かということと、
自他の境界を超えた一体感とワンネスの体感。言葉にすることが難しい安心感と至福。
当時は、知る由もないが、そんな天からのギフトをもらっていたのだと、今では思う。
このお風呂でのわずか1日10分前後の安心と至福の時間があったからこそ、、、
3ヶ月間私はこの痒みと痛みと哀しみに向き合い続けられた。
この体験でいただいた宝物は他にも沢山あった。
まるで人間ではないような容姿だったので、私とは程良く距離をとりながら、4人の子供達や夫は見守りながら、それぞれに自立して頑張ってくれた。
いつもは1番お手伝いから逃げていた次男が、毎日、お鍋いっぱいの電子水を往復しながらお風呂へ運んでくれて、、いつもの見ている世界や思い込んでいる性格らしきものは、全て一方向からの見方であり、一側面に過ぎないことを学んだ。
夫は治療方針に納得していない状態であったにも関わらず、毎晩の私の呻き声やにおい等の不快さがあっただろうに寝室を共にしてくれて本当に心から尊敬した。
子供達の食事を作りに来て支え続けてくれた食育仲間には本当に感謝の気持ちで何度も泣いた。
そばに住んでいてくれた妹にも心から感謝している。
最後に、この体験でいただいた最大のギフト。
『悪化の一途をたどる時期(前半)は、どんなに皮膚を保護しても日に日に皮膚は崩れていく… でも、一旦峠を越え皮膚が回復へ向かう時期に転ずると(後半)、どんなに掻き壊しても、翌朝には前の日よりも少しだけ丈夫な皮膚ができていく…』その違いは明らかだった。
これが2つ目のびっくりだった体感、かけがえのないとっても貴重な実感となった。
それは生命力というのか、
自然治癒力という名前なのか。
その“私”という意識と思考を超えたところにある、大いなる絶対的なチカラ・エネルギーの存在。
(故・村上和雄氏の提唱する大いなる存在サムシング・グレートと私は認識している)
生きとし生けるもの全ての中に、それはある。
パワフルな圧倒的な大きなエネルギー。
全ての人の中に、それは存在する。
きっと、医師・医療というものは、その一人一人に備わっているその治癒力・生命力をサポートするものでなければならない。決してサムシング・グレートの大いなる流れに逆らうことはできないのだから。
時に、それは私たちの3次元的な意識とは違う方向へ発動することもある。けれども、それは必ずより良き方向へ整えてくれる。ナチュラルな自然体になるよう、歪みを戻そうとして。大切な何かのメッセージと共に✨