#4.なぜ精神科医になったの?
心の扉を開きたいの☆彡
「なぜ、精神科医になったのですか?」
折にふれて、私がよく聞かれる質問です。今では天職だと思っていますが、ずいぶんと長い年月、私は「私にもよく分からないんです。」と答えていました。
研修医の時には、精神科先輩医師にこう言われました。
「どうして普通でまともそうなのに精神科に来たの?」
「え!!?」
・・・。
この時は精神科医を選択してよかったのか謎に不安を覚えました(笑)
そんな私の44年間の軌跡。少しだけお付き合いください。
私は、広島の厳島神社の近く、廿日市市に生まれました。父が体育教師だったので、スポーツが好きで日焼けして真っ黒な一見活発な女子。その一方で、生後2ヶ月からのアトピーと、喘息、免疫力は常に低空飛行。学校で体調崩しては保健室や小児科点滴室の天井をよく眺めていました。
風邪をひくたびに、喘鳴と呼吸苦から体を平らにして寝れない夜を過ごしました。小学校時代の喘息の重積発作。いつも以上に虫のような弱い息しかできなくなりゆっくりと意識が遠のいていく中「ママ、死ぬ…」と意識消失し、あの時は私は死んだと思いました。気づいたら病院のベットの上でした。当時の医療に命を救っていただきました。
敏感で繊細。1945年8月6日午前8時15分、広島原爆投下。毎年の平和教育で、幼な心に受け入れ難い光景は目に焼きつき、その日を境に半年間夜一人でトイレに行く事が出来ませんでした。学校の通学路では怯えながら毎日壁沿いを歩いて通学した記憶があります。生きるチカラに自信がなく、苦しみや哀しみに不安恐怖し、戦争が起きたら1番に死にたい…そんな願いを持つような子でした。
中学生。思春期特有の荒れた教室の中で目立たないように萎縮して居場所探しの日々。言葉を発することはさらに減り、1日誰とも話さない。どこに安心の場所があるのだろう。社会の歪みや苦しみ、自信のなさ、寂しさや孤独感を抱えながら、私達はどこに向かって生きているのか。受験社会灰色の世界に感じました。
それでも、厳しくも慈愛の深い両親のもと、身体を動かす楽しさや体験・経験を分かち合う楽しさを時に共有しながら、
健康になりたい想いや身体の仕組みを知りたくて医学部へ。医学部の授業は、生理学・生化学・解剖学…と、関心がある分野は本当に楽しく、面白かった。けれど、西洋医学の枠の中では原因不明の疾患が多すぎて最終的に手術やステロイドに終始するため、だんだん興味を失っていく自分がいました。アトピーや喘息を根本的に治して健康になりたい…でもここ(西洋医学)には私の欲しい答えはない。私はこのまま医師になりたいのだろうか。。。
大学時代に腰痛が悪化し、西洋医学の大学病院整形外科ではあらゆる検査や電気治療など施してくれましたが、数ヶ月悪化の一途をたどり、ある朝歩行不能に。。。
父の紹介で中医学の気功に出会って1ヶ月で治癒。
世界にはいろいろな医学があることを知りました。
西洋医学で尽力されている医師がいることも確かです。大学のスキー部で膝前十字靭帯を損傷し、一度は運動を諦めて演劇部へ。しかし、数年後、関節鏡手術を受け、約1年のリハビリや10年近い縫合部の違和感を経て、今またスポーツを楽しめる人生もいただきました。現在の医学をより発展させて、質のよい医療を提供したいと日々奮闘している先生方もたくさんいらっしゃいました。
本題に戻ります。
私は、どうして精神科医になったのか?
医学部卒業前の救急病院見学も、大きなきっかけをいただいた出来事の一つかもしれません。
6年生の夏。友人2人と九州の救急病院見学へ。
リストカットならぬフットカット?…太ももや腹部をザックリと深く切って救急外来に来ていた女の子。
彼女の悲しみも怒りも何も感じさせない無表情な顔、サイボーグのような無機質な身体、救急医がリピートするのをたしなめる冷たい言葉の数々を受けながらの縫合、新旧様々な数えきれない傷口の跡…まるで血の通わない凍るような光景を見ながら、私は息を詰まらせていました。
どうしても気になった私は、その後の彼女の専門医受診を見学させてくださいと申し出ました。
年配の男性の心療内科医の診察室に入った瞬間、彼女は人間の表情をして号泣していました。
彼女も人間だ。。。
そうだよね…苦しいよね。悲しいよね。。。泣いている。彼女も生きている。。。
そのドクターの前では心を開いている…
あらゆる科の中で、将来の自分がそう診療している姿が全く想像出来なかった精神科。
未知の世界。
決して華やかではない、ラクではないだろう。
全く方法が見えない…
できそうな気もしない…。
けれど深いところで、私が未来でもしそんな自分になれるのだとしたら…
その時、思考はもう追いついていなくてヒューズが飛んでいたかもしれないけれど
…魂はYesといっていた。
彼女が今どうしているのかは分からなのいけれど、彼女の一生懸命な生きる姿とその純粋な涙は私の魂へ大きく振動を残してくれました。
彼女の涙を見て、この社会の中で苦しむ人を、一人でも幸せな人をふやしたいと願い、そして目の前の先生のように心を開いてもらえる自分になりたいと、思いました。
精神科という角度から、医学・治療学の範囲を超えて、心と身体と脳と社会環境や様々な制度を丸ごと広く深く見つめていきたいと思ったのでした。
ただ現実的には、、
手術見学や実習中にも迷走神経反射でしょっちゅう倒れ、思い詰めると過呼吸発作が出る…そんな身体とココロの線の細いそんな私であったので、研修医時代にすぐ撃沈することになるのではありましたが。
(つづく)